「性愛」格差論―萌えとモテの間で
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格差論というよりもミクロ的棲み分け論。 |
本書ではモテは勝ち組、非モテは負け組という単純で貧しい二元論によるマクロ的格差論ではなく、腐女子、負け犬、やおい、おたくといった流行語大賞的キーワードによる性愛の実態をネタにしたユニークな社会論書。どんなにお金があっても性的に抑圧されている性的弱者は決して勝ち組ではなく、また3次元の女性と性的交渉がなくても2次元に真実の愛を求めて旅立った者は必ずしも負け組ではない。萌えや腐女子など性的趣味嗜好が細分化されヘテロでノーマルがかならずしもよいものかどうか疑問に思えるほどさまざまなトライブが存在していることを本書は示している。一説によると30歳を超えた童貞は「妖精」になり、年をとった腐女子は「貴腐人」になるらしい・・・
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酒井順子株、再びストップ高!! |
「負け犬の遠吠え」の続編(?)、「その人、独身?」を読んでがっくししたわたし。「負け犬」は一発打ち上げ花火だったか?感がまんまんだったんだけど、本書で酒井株はわたし的には再びストップ高になった。
いきなり終章のハナシで恐縮だが、酒井女史、「離島に暮らすわたしたち」で今のオタク・腐女子・ニートなトレンドをさらっと、本当にさらっとまとめている。「大陸」に住んでいる自分は本当に「離島」住人より幸せなのか。幸せって何だっけ♪なBGMが読者の頭に流れ出す。
勝ち組負け組がはっきり分かれる社会がイカンと目くじらたてる人たちは実は一番「負ける」のが嫌い。単純志向回路。
でもみんなが離島にバラバラに住んでるだけで本当にいいの?そこで「性愛」が出てくるわけだ。酒井女史の最後のコメントを引き出したオタク先生・斎藤サンもすごいね。何しろ考えさせられることが多かった本。
単純二元論は聞きアキタ、な方は是非。
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非主流派の恋愛観を探ってみる |
オタク化する男性と他人に頼る必要が無くなった
(=一人で生計を立てられる)女性。
皆が皆、上記の様に変化した訳ではないが、或る
意味、それらに走れば or 成れれば「他者(特に
今回の場合は異性だ)」は不要であろう。
では何故そうなったのか?
両者の間は何処が異なったのか?
逆に共通点は無いのか?
どうやったら両者とも変われるのか?
上記の様な疑問をオタク側の代表=斎藤氏と
女性側の代表=酒井氏が対談形式で考え、綴った
のがこの本。
その中身は、と言えば貶すほどでは無いが
かといって褒める点もそんなに多くない。
現状認識(それも著者の主観内の話だ)と仮定
(これも著者の経験と感覚に拠る)に基づく話
なのだ。
確かに「こういう視点・考え方もあるな」という
参考にはなるだろう。
ただ、前述したとおり主観に拠っている為、それが
何処まで信憑性を持つか?となった時、論としては
弱いと思わざるを得ないのだ。
(特に斎藤氏は何度も「一説には?」という枕詞で
「○○が××」と述べるのだが、その論拠となる
データは殆ど示されて無い)
その点、酒井氏の方は「自己体験」の範疇で
話を進めるのでその見解に「地に足が着いている」
感が有り、まだ理解も出来る。
高所大局的な視点では無く、身近な視線で
異性間交流=恋愛だ、について考えてみたい
という御仁には・・・お薦め・・・かもしれない。
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現実的な格差社会論 |
新聞や本で様々な評論家や大学教授などが「格差社会論」を唱えている昨今ですが、その多くは、上にいる人たちが下にいる人たちを憂い、上からモノを言って否定して何とかしなければならない(でもその結論は提示できない)、というものが多い。何より、「萌え」「ニート」「フリーター」を頭ごなしに拒絶し否定した上での議論で、どこか現実離れした感がありました。
この本は、上でも下でもないどっちつかずの2人が、現状を拒絶せず距離を置いて主観的でもどこか客観的に現状分析をしているところで、より現実的な議論がなされているように思えます。(対談という形式もあり)云わば居酒屋で「あーでもない、こーでもない」と話し合っているのを聞いているかのようで、気軽に読むことができました。
この本では現状解決として提示されているのは「性愛」でしたが、その定義が明確に示されたかったのは残念です。
個人的には、各階層を結び付けるには、第1章にある「結婚を支援する支援者(=お見合いおばさん)の支援が必要」が有力ではないかと思われます。
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読んで楽しい本 |
1961年に生まれ、現代の若者の心性に詳しい、現在事実婚(通い婚)状態の精神科医と、『負け犬の遠吠え』(2003年)の著者である1966年生まれのエッセイスト(自身「負け犬」)が、経済中心の格差論に対抗するための足場として(上下の差に対する左右の差としてだが、それが成功しているか否かは不明)、「性愛」による「棲み分け」に注目し、2006年に刊行した数回にわたる対談(2005?06年)の記録。1章(初出は『中央公論』)で「負け犬」(三十代以上、未婚ないし非婚、子ナシの女性)が、2章で「おたく」(ヴァーチャルな対象に没入する=萌える男女)が、3章で「ヤンキー(っぽいもの)」(厳密な定義は無いが、過剰な様式美をアピールする男女か)が、4章で「腐女子」(やおい愛好者の女性。これは「サブカル」の例か、「おたく」の例か?)が論じられる(それぞれ一定の棲み分けはしているが、すっぱりとは分けきれないものとされる)。数量データが出てこないわけではないが、基本的には気軽な対談であり、随所に鋭い見方が示され、また笑える。1990年代以降、判断基準が多様化し、「普通」が消滅し、若者に体験主義が通じず、絶望も希望も持てなくなりつつある(諦めとカーニヴァル化)という分析をもとに、著者達は結論として、男子は女子に学び(あえて近視眼的になり目先の日常生活を大事にする)、女子は自然体で生きること、あえてバカになることを恐れず、性愛に希望を託すことを主張する。全体的な構想の妥当性や斎藤のシステム論批判の是非はともかく、読んで楽しい本であることは確か。池袋の乙女カフェ(男装女性給仕喫茶店)にも要注目(笑)。



